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第4回 木下 公司(徳島県立池田高校OB)

伝説の池田高校野球部が話す。池田高校やまびこ打線の真実。

筋力トレーニングは動きから鍛えられていた

——元々池田高校に入学するきっかけはどのような経緯だったのですか?

甲子園で準優勝をした池田高校を見て、中学3年生の時に入学を決意しました。当時の池田高校監督である蔦 文也監督(以下蔦監督)がちょうど定年を迎えられるタイミングだったので指導を受けるには、このタイミングしかないと知り、入学を強く希望しました。

——公立高校である池田高校が強かったのはどんな所に強さがあったのでしょう?

ほとんどが県内出身者でしたが、まずプロ野球のドラフトにかかるような投手がいたことは貴重でした。畠山 準(元南海ホークス)や水野 雄仁(元読売ジャイアンツ)などドラフト1位に指名されるほどの良い投手でした。
それに加えてなんといっても蔦監督の執念がありました。「絶対に甲子園で優勝するんだ」と先生が強く打ち出して、それに選手がしっかりとついて行く姿勢がチームにあったこと。ただ、やはり一番大事だったのは、トレーニングと食事。ちょうど3年生の時に食事でタンパク質の量を増やしたり、減らしたりするなどコントロールする取り組みがありました。炭酸は絶対厳禁で、反対にお肉を沢山食べる事はタンパク質を摂る意味で推奨されました。

——トレーニングでは当時の池田高校は高校野球でもかなり早く筋力トレーニングを取り組まれていた印象があります。

誤解を招くところではあるのですが、筋トレに使う器具はありましたが、実際はそれを主に使っているわけではありませんでした。たまたま野球部の副部長さんがレスリングを競技として行っていた方でした。トレーニングについては持論をお持ちの方で基礎体力について、とても重要視されていました。そこで自分の身体を使って負荷をかけるトレーニングを沢山行いました。

——筋トレの器具を使わず、自分の身体で行うとはどのようなトレーニングだったのでしょう?

基本でいえば腕立てや腹筋、背筋、ホフク前進、スクワットをしっかりと行っていました。さらに言うとサーキットトレーニングは年間を通して取り組んでいましたね。実際に年間通して行うとプレーが変化するのが実感出来ていました。特に分かりやすいところでは、バッティングの飛距離が伸びて行くのがわかり楽しかったです。

——現在では筋力トレーニングの器具は発達していますが、当時器具を使わないメリットはどんなところにあったのでしょうか?

器具を使ってしまうと、いわゆる無駄な筋肉がついてしまうと思います。筋肉がつけば、ただの力が増えますが、野球とってはプレーが良くなるとは限らないと思います。原始的な動きのトレーニングでは、実際のプレーをイメージしながら、動きの中で鍛えられるので使える筋肉、実戦向きの筋肉が鍛えられるメリットがありました。動きのトレーニングでいえばタイヤ引きもやっていました。そのような動作を行いながら鍛えていました。今でいうバランスや体幹トレーニングも選手は動きの中で無意識で芯を作るようなコツを掴んでいたと思います。タイヤ引きだけではなくタイヤ巻きというものもありました。棒にタイヤをひもでぶら下げてタイヤを棒にひたすら巻く練習です。またタイヤ押し、ロープ登りもしましたね。

——沢山の動きで鍛えるようなメニューがあったようですね

そうです。今でも印象に強いのは12分間走が特にキツかったですね。心肺機能を高める目的に全力で取り組むのですが、一番極限の状態でも体力をきらさないような持久力を鍛えられていました。考えてみると野球の動きに共通する動きの中で鍛える文化があったと思います。

池田高校の野球・蔦監督も一度は細かい野球に取り組んだ

——今度は当時の池田高校についてですが、やまびこ打線について教えて下さい。当時の池田高校は1番から9番まで打てる打者がずらりと並んでいました。

当時の全国制覇した打線は蔦監督の理想だったと思います。細かい事をして勝のではなく一気呵成に打って勝つ。 先生自体は投手出身ですがバッティングが好きで、練習の7〜8割はバッティングの練習をするくらいでした。蔦監督も一度は1点を取りにいく野球を取り組まれていたようですが、どうにも性に合わないということで、打ち勝つ野球を目指されたようです。しかし打つ練習を多くしただけではないです。例えばフリーバッティングでは、マシンのボールスピードはかなり速い設定にしていました。シートバッティングでは、様々なケースを想定して、バッティングの内容も考える練習でしたし、レギュラーバッティングというような実際に投手が投げて打つ練習がありました。プロ野球にいくような投手が2人もいましたから、かなり質の高い球を打つ練習が出来ました。

——細かい指導は蔦監督からあったのでしょうか

「遠くに飛ばせ」でしたね。でも、それぞれ選手個人でその課題に向き合っていたと思います。遠くに飛ばすにはどうしたら良いのかまず考えますよね。自分の体格を大きくするにはどうしたらよいか考えたり、バットのヘッドスピードを上げなくてはならないなどその当時考えていました。蔦監督からお題が出て、それに対して選手がどうすればよいのか一生懸命考えて工夫していたと思います。

——当時の選手達は考える習慣が高校生ながらついていたのでしょうか?

基本的に沢山言わない指導だったのですが、結局試合で結果出さなければメンバーには入れないので、選手は一生懸命考えて、工夫する習慣がついていました。

——現在の指導者は細かく教える指導が多いように感じますがそれと逆ですね。

放任ではありますが、根幹はしっかりしていたと思います。細かく教えられても試合で打てなければ選手が納得しませんし、自身で考えて工夫する自主性は選手の中でかなり高かったと思います。

——池田高校の特徴としては外からは打線が挙げられますが、選手から見た特徴はどんなところだったのでしょう。

選手同士が群れる事は少なかったですね。1人1人が自立していたと思います。監督に言われても、自分の考えを言い返すじゃないですけど、指導者に対しても考えて言う習慣もありました。集団行動も大事ですが、いつも集団で行動していると、本当の意味で自立していない。現代だと集団行動の徹底がありますけど、それだけでは勝てないと思います。実際に試合でプレーするのは選手ですから。実戦練習が特に多かったと思います。普段の練習でも多く、練習試合も遠方に行って行いました。バッティングの話が先行しがちですが、守備練習も行っていました。ただ、バッティング練習でも守備練習なんです。フリーバッティングでは生きた打球が来る、守備練習を兼ねているわけです。打撃練習でも守備の評価として蔦監督が見ているので、そこには凄くプレッシャーがかかっていましたし、集中して守りました。

——練習のための練習をする学校が現在多い中、実戦である試合のために練習をすることが選手に意識されていたのでしょうか?

蔦監督が「全国制覇する」を明確に掲げていたので、選手がそれを意識してどんな練習でも取り組んでいたことが実戦を意識できたことだと思います。
高校3年間で5回甲子園に出場するチャンスがあります。その中で3回は出れるだろうと考えていたら、ことごとく負けてしまい、4回目のチャンスである2年生の秋に明徳義塾に負けたことで、甲子園に出場するチャンスがあと1回しかないとなって、そこからもの凄い危機感をもって練習したことは覚えています。振り返るとそれまでに1、2回出場していたら実際に優勝した最後の大会ではその緊張感はなかったかもしれません。ただし、そこでの挫折を味わったことで、最後のチャンスへの集中力が上がり、優勝するまでの起点になったことは間違いなかったと思います。

蔦監督の3つの教え

——蔦監督からはどんな教えがあったのか教えて下さい。

蔦監督からは3つの教えがありました。
1つ目は平凡なことが一番難しい、当たり前にやることが難しいし、素晴らしいんだと教えられました。
2つ目は勝負が一番の練習であること。いくら練習したとしてもそれは練習でしかない。勝負の中で、実戦で技を磨く事が大事であることを教えられました。
3つ目は一事が万事であることも教えられました。日頃の行いが絶対試合に出る。普段の何気ない事を粗末にしているとどこかで、大事な時にミスをすると、毎日の行いを野球の神様は見てるぞとおっしゃられていました。

——現在の指導者は野球に限らず道徳を教えることは珍しいと思います。蔦監督はそういった道徳的な教えもしっかりされていたのでしょうか?

普段の選手の生活態度も、試合に出場する条件にしていたと思います。学校での授業態度もしっかり見ていたと思います。他の教科の先生からの話も聞いて、選手の様子を把握していて、選手も生活態度をちゃんとしないと試合には出れないと意識していました。在学中に蔦監督が始めたのですが、選手1人1人に日誌のような一日の流れ、反省ノートのようなものを書かせる習慣を始めました。

——毎日1人1人蔦監督が日誌を見るのですか?

はい、その日誌に書いてある内容を見て、赤文字でチェックしてくれました。蔦監督が選手に反省の内容をどのようにすればよいのか伝えていました。それも見て選手が試合に出場する基準になっていたと思います。今考えてみると、部員も多かった中あれだけの数の日誌をそれぞれ見て、チェックして指導されていた事は大変なことでしたが大切なことを教えてくれていたと思います。

木下 公司 koji kinoshita

徳島県立池田高校OB

1982年、畠山準投手を擁して夏の甲子園を制した池田高校のメンバー。やまびこ打線と称された猛打の池田打線の一翼を担う。当時、『攻めダルマ』と呼ばれた故、蔦文也監督率いる池田高校はエースの力投と圧倒的な打力で勝ち進む。準々決勝では前評判の高かった荒木大輔率いる早稲田実業と対戦。「相手は荒木だし、もう負けてもいいやという覚悟で臨んだ」気負いがなかったのが良い結果に繋がったと振り返る。準決勝の東洋大姫路戦では6回に決勝点となる2ランホームランを放つ。決勝では12対2で広島商業に大勝する。同志社大学でも野球部で活躍。三井住友銀行の野球部でも10年間プレーした。

木下 公司

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